第013回 律令国家のもとでの人々の生活 ( 奈良時代 )
第013回 律令国家のもとでの人々の生活 ( 奈良時代 )
700年代の出来事です。(8世紀ころ)
ポイント:律令国家での人々の生活を調べましょう。(おとなり、唐の政治を見習いました)
その1 2つに分かれた身分、そして、税
時は流れ、8世紀前半。つまり、701年から750年にかけて、日本の人口は450万人程度。
最終的には、700万人くらいになったと言われています。
それにしても、1億2千万人に比べれば、少ないですね。
この当時、唐の律令にならった大宝律令だされていました。
その律令には、良民と賤民に分けられ、6年ごとに戸籍がつくられたのです。
この賤民は、奴婢といわれる奴隷のことです。
戸籍に登録されると、6歳以上、つまり、今の小1くらい。
身分に応じた『口分田』が与えられたのです。小1ですよ。
その口分田の広さはなんと、2300㎡(2段)広くないですか。
でも、この2300㎡って、2段のことをいうんです。
良民の男子:2300㎡ 賤民の男子:767㎡
良民の女子:1533㎡ 賤民の女子:511㎡
40mx60mの畑をくわで耕してみてください。だいぶ、汗をかけますよ。
ところで、お米の収穫量ってどれくらいかご存知ですか。
1haあたりで、約4~6トン。これは、現在の収穫量です。
では、奈良時代は、どうでしょうか。いろいろな研究がなされていますが、
当時、一人あたりの米の年間消費量が150kgだったそうです。いまもそうですが…
それを『一石』とよんでいます。
さて、班田収授法という制度があったこの時代。
班田収授法:『口分田』を配り、収め授かる法
正式に何年に成立したきまりなのか、定かではありません。教科書のどこにも載っていませんよね。
公地・公民の原則がありますから、人が生きている間のみ使える『田』が『口分田』です。
人が亡くなれば返す土地、それが、『口分田』です。
『口分田』が与えられると、その面積に応じて、税を課せられます。
公地=耕地
いつも、耕して、収穫です。うかうかしていると、食べ物にも困ってしまうのです。税がありますから。
それでは、その税の内容についてみていきましょう。
課税対象者:21歳~60歳 成人男子が主体です。年齢の段階に分け、税の負担も変わります。
ただし、布などもおさめるため、女性も課税対象者といってよいでしょう。
・税の種類
租:稲(収穫量の約3%)
用途:ききんに備え国や郡の倉庫におさめられていました。
調:絹、糸、真綿、特産物
真綿って何でしょうか。調べてくださいね。ヒント:カイコ!
用途:役人の給与
庸:布(麻布)←労役いの代わりの税負担です。
用途:役人の給与
雑徭:地方での労役です。期間:年間60日以下
兵役:訓練を受けますが、食料、武器は自己負担。
一部の人は選ばれ、都に1年、防人に3年の兵役となります。
この間、受け持ちの口分田はどうなるのでしょうか。ちょっと、考えてみましょう。
防人:九州北部の防衛
出挙:稲を借りることができますが、50%の利息をつけて返します。
国司から借りる『出挙』を『公出挙(くすいこ)』といいます。のちに強制となります。
税の免除規定:
貴族は、調、庸、兵役が免除されていました。しかも、高い給与、広い土地が支給されていました。
この条件は、良民、賤民と同様、代々引き継がれていました。
正直な話、こういうのが引き継がれるといいですが、賤民の人々は、引き継ぎたくない、
良民になりたいと思ったことでしょうね。
ちなみに、良民のなかでも特権をもったごく一部の人々…貴族たちは、
約200人ほどしかいませんでした。俗に言う『エリート』ですね。
賤民は、『奴婢(ぬひ)』と呼ばれ、売買されていました。
もっとも全人口の1割未満でしたが、存在していました。
しかも、奴婢以外との結婚は禁止、子どもが生まれても奴婢。
つまり、このころにはもう、差別があったのです。
ところで、この重い負担に文句を言わず、ただ働く人ばかりの人が多かったのでしょうか。
いいえ、そうでもないです。苦しい生活から逃れたいという気持ちは誰にでもあるものです。
春から夏にかけて、食べる米もなくなる人も多かったのです。
それもそうですよね。子どもや女性が田を手入れするといっても、それほどできませんから。
いまのように、農業機械があるわけではありません。
すべて手作業です。大変ですよ。農作業。やってみてください。どれだけ大変な作業なのか。
単調な作業が続く農作業。簡単に見える農作業。
頭と実際は全く違います。経験した人にしか分からない苦労があります。
しかも、男性は兵として、家を留守にしたり、『調や庸』を都までとどけに行ったり。
留守が多かった男性。いつ、『口分田』を手入れしたらよいのでしょうか。
実際には、重い負担だったため、
逃げ出したり、男子が生まれても女子が生まれたことにして、
戸籍を偽ったり。そんなことが横行し始めるのです。
その2 あれ、公地は?土地の私有化(荘園)
このころ、農具が木から鉄製に変わりました。もちろん、稲の増収につながりました。
稲が増収できれば、あまって生活に余裕ができるかも…。
人生、そんなに甘くありません。人口も増加傾向にあったためです。
そして、まさかの『口分田の不足』という事態が発生するのです。そこで、朝廷は考えたのです。班田収授法の代替案!
723年:三世一身法をだします。(効果がありません)
開墾した田は本人の生きている期間、使用可能。
そして、用水路をつくり新たに開墾すれば、孫または、ひ孫までの私有を認める法。
でも、やっぱり、亡くなれば、返すので効果は期待できませんでした。
また、朝廷は考えました。
743年:墾田永年私財法。
『口分田』とは別に、新しく開墾した土地は、『墾田』といいますが、
税負担は口分田と同様ですが、私有が認められました。
もちろんその土地(墾田)を子孫に伝えても構わないし、売ってもよくなりました。
寺院や郡司は、農民をつかい、開墾をしたり、墾田を買い取ったり。勢力を伸ばし始めるのです。
今日の公式
荘:私有地(墾田)の管理ための事務所や倉庫
貴族や寺院の墾田 = 荘園
荘園 = 私有地
あれ?なんかおかしくないですか。公地・公民の原則が…くずれてます。
奈良時代の人々にとって、重い負担、そして、逃亡する人々、戸籍を偽る人々、
農機具の変化(木→鉄)、人口増加にともなう口分田の不足…。
朝廷は、これではいけないと政策転換を迫れたのです。
そして、寺社や貴族たちが農民を利用して開墾するのです。
彼らの私有地が広がり、勢力もつけ始めたというわけです。
公地の割合がいつの間にか、減少傾向に転じたのです。
時代の変遷とともに、朝廷の政策も余儀なくせまられたといってよいでしょう。
今日は、この辺でおしまいにします。